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Vol.1 国際基準のプライベートクラブを目指して

Atmosphereに包まれたGentlemenたちの空間

by Masa Nishijima


ゴルフへのロマンによって誕生したソサイティ

 19世紀、産業革命によって英国全土に広がった鉄道網は、ゴルフ普及の歴史においても多大な貢献を果たしました。鉄道の発達によってゴルファー達は気ままに各地を訪問し、それは俱楽部対抗の歴史へと繋がっていきます。そして「我が町のリンクスランドにもゴルフコースを造ろうではないか!」と、ゴルファーたちのこの熱い思いが、リンクスランドにいくつもの芸術作品を誕生させていくことになります。今でもリンクスコースのすぐ側に鉄道駅があるのは、それも理由のひとつです。 あのSt. Andrews(セント・アンドリューズ)でも、かつてはオールドコースの脇を鉄道は走り、駅舎と倉庫が現在のオールドコースホテルの場所にありました。 19世紀後半になりますとリンクスランドにはいくつものゴルフコースが点在するようになりますが、しかし発起人たちが集う俱楽部ソサイティとゴルフコースとはまったく別で、コース所有の権利はその地方の協議会が持つことになる事が多かったのです。つまりセント・アンドリューズのように、協議会がパブリックと認めるならば、ゴルフ俱楽部のソサイティがあろうとコースはパブリック、ソサイティの俱楽部はプライベートとなります。又、コースは特定の俱楽部の所有、管理するものと認められるならば、俱楽部もコースもプライベートになりますが、コースはプレーすることにブライベートな権利を与えられただけで、誰もがそのリンクスランドに立ち入る権利を持っていました。 現在もどの名門コースであれ、コース内にパブリックフットパス(公共の遊歩道)が設けられているのはそれが理由です。パブリックであるセント・アンドリューズなどは、夕方5時を過ぎれば、ゴルフコースはすべてリンクスランド公園として扱われ、市民たちが散歩する憩いの場となります。ゴルファー達はプレーを続行できますが、市民たちにも権利が与えられる。つまり彼らがホールを横切るまで待たなければなりません。


ゴルフコースとゴルフ俱楽部の関係

 エジンバラから東へ車で小一時間ほどのリンクスランドに、North Berwick GCウェストコースがあります。このリンクスコースは、オールドコース同様、後のクラシックコース設計の定義に多大なる影響を与えたホールがいくつも存在しています。15番PAR3のRedanホール、16番PAR4のDouble Plateau GreenのGateホールはその代表でしょう。今日では至るところで戦略的Redanホールを見掛けますが、このNorth Berwickの15番ホールが元祖です。またニクラウスの設計チームは好んでダブルプラトー系のグリーンを造りますが、それもここの16番Gateホールからインスパイアされたものです。

このリンクスの歴史はここから東に位置したイーストコースの6ホールから始まり、拡張されながら、現在のウェストコース付近に辿り着いた歴史があります。

North Berwick GCは1832年に貴族階級のゴルファーたちによって俱楽部が設立されました。しかし1853年、街の経済を担うオーナー商人たちは自分たちもここでゴルフを楽しむ権利を主張し、タンタヨンGC(Tantallon)を設立、更に1873年には教職者、行商人など一般人たちもがプレーの権利を主張し、バスロックGC(Bass Rock)を設立、それぞれにプレーする権利は認められました。そしてこのリンクスがあるイーストロジアンの協議会は、それぞれの俱楽部のグリーン委員会にコースを維持、管理するよう求めたのです。1888年にはレディーズクラブも立ち上がりましたが、現在はNorth Berwick GCに属しています。ひとつのリンクスコースを複数の俱楽部ソサイティが共有する一例です。

これらの事から、ゴルフ史において、ゴルフコース以上に、その俱楽部ソサイティの存在がより重要であることが理解できるでしょう。そこはゴルフ好きな男たちが集う集会所であり、酒を分かち合い、カードをする者たちもいました。そして、彼らはここをいかなる身分であれ、ジェントルマンの場として、ジャケット、タイ、そして身分を示すかのように様々なデザインのハンチングハットを被り、入館を義務付けていたのです。昔のゴルフの風景画や写真に、ジャケット、タイでゴルフをしている人々が描かれていますが、この風習はなんと戦前まで続きます。つまりここにゴルフは紳士たる者の球技と言われる由縁があるのです。

後に日本ではこれらを模倣し本質を理解せず、見た目だけのドレスコードを導入してしまいました。

本質的には、クラブのソサエティとしてTPOに合った装い、立ち居振る舞いができていることが重要なのです。

※2020年3月6日 ドレスコード改訂の案内から抜粋


馬とゴルフは切っても切れない縁にある

 その記述書からスコットランド最古のゴルフクラブとされるMusselburgh Links(マッセルバラリンクス)は、競馬場の中に9ホールがレイアウトされています。

設立が1672年とありますが、何故か1567年にメアリー女王が再婚されたばかりのボスウェル伯とここでゴルフを楽しまれたとの言い伝えが残されています。

ボスウェル伯との再婚からメアリーは前夫ダーンリー卿殺害の疑いがかけられ、この年の7月にロッホレーヴェン城に監禁され廃位となりました。

Musselburgh Linksは1874から1889年にかけて、6度も全英オープンが開催されていますが、ここもいくつかのゴルフソサイティクラブによって運営されてきました。その中で最も有名なソサイティグループが、1744年から加盟したHonourable Company of Edinburgh Golfersです。彼らは1891年に脱会し、男性オンリーのクラブ、Muirfield Golf Clubを設立します。

さて競馬場とゴルフ場がひとつの場所にアネックスされている例は、英国にいくつもあり、米国にもその流れは継承されました。有名な所ではホイレイクことRoyal Liverpool GC(ロイヤルリバプール)であり、ここはかつてロイヤル・リバプール・ハント競馬場としても有名でした。1番と16番に挟まれたトラックがその名残があります。米国ではボストン郊外の名門The Country Club Brookline(ザ・カントリークラブ・ブルックライン)に競馬場があったことは有名です。実は日本も同様でした。日本最古のゴルフコースは1903年に神戸六甲の山岳地に開設された神戸ゴルフ俱楽部ですが、しかし当時はまだ芝草への見識は浅く、サンドグリーンで楽しまれていました。それから僅か3年後、関東にもゴルフコースが誕生する。

それは1866年に開設された横浜根岸の競馬場の内側に造られました。

NRCGA(Nippon Race Golfing Association)、日本で初めて芝のグリーンを持った9ホールコースでした。競馬場は戦中の1942年に閉鎖され、ゴルフ場は1969年米軍から返還されるまで存続しました。現在は根岸森林公園として桜の時期には大勢の花見客を楽しませています。馬とゴルフの共通性、昔からハイソサイティなセレブたちにとって、究極のレジャーであったことは確かなようです。



クラブハウスとプロショップ

 欧米のプライベートクラブにお邪魔すると、プロショップとクラブハウスが別棟にある例が多くございます。これにはクラブに所属したヘッドプロたちとの深い歴史があります。英国で始められたゴルフですが、クラブやボールなど用具の開発は、米国がゴルフ産業のイニシアチィブを取る時代がすぐに訪れました。クラブに所属するプロたちは、トーナメントの遠征に出かける度に、メンバーたちから新しく開発されたクラブやボールの購入を依頼され、そして彼らがそれらの品を荷物一杯に帰国し手数料を頂戴しているうちにそれを自分たちプロゴルファーの特益としたのです。中にはトーナメントなどどうでも良い、買い付けに走るプロたちも多くいたそうです。この歴史からクラブ側がヘッドプロにショップの運営権を与え、用品の買い付けはもちろん、レッスンなどのプログラムもすべて委ね、彼等は、ゴルフにおけるメンバーの相談窓口的役割も果たすようになります。プロショップの名称はこのような理由から誕生したのです。つまりそこはクラブ運営とは別物となるヘッドプロたちの職場なのです。従って、メンバーたちの多くは、信頼あるヘッドプロに、クラブのフィッティングの調整はもちろん、ボールなど新商品の購入までクラブのプロショップで購入する方たちが多いのです。プロショップは、ヘッドプロとメンバーたちのコミュニケーションの場でもあります。メンバーの紹介で訪れたビジターがまず向うところはヘッドプロが居るプロショップです。そこでメンバーと合流し、クラブハウスのロッカーに行くか、又はそのままコースへ出向くこともある為、プロショップにはそんなゲストのための荷物置き場としての小さなロッカールームを設けているところも少なくありません。欧米ではクラブハウスの施設は使えない、プレー権オンリーのメンバー制度もあります。彼らはプロショップ奥のビジター用のロッカールームで着替えをし、そしてスタートします。つまりクラブハウスとゴルフコースをまったく別物のステータスに置くプライベートクラブもあるのです。

日本のプロショップはどうでしょうか? そこに行けどヘッドプロはいない、売り子の可愛いお嬢さんがプロショップとは関係のないはずのご当地産の土産物まで販売しています。日本のヘッドプロたちは自分たちが何をするべきかを考えなければならないはずです。景気が悪化すれば、「申し訳ないが、ヘッドプロを雇う余裕はございません。」となります。ならば欧米のように、自分達の職場をゴルフ場の中で開発させて頂く必要性を求めるべきではないでしょうか。

クラブハウスはあくまでメンバーだけの空間であり、Atmosphereはその舞台にあわせメンバーたちが個々に感じ作っていくものです。そこにビジターが羨むプライベートクラブの正しい哲学があります。

日本のプライベートクラブのあり方、ヘッドプロから、グリーンーキーパー、支配人に至るまで、その意識、存在価値は、メンバーによるメンバーのためのクラブ形成として日本は本当の改革が必要な時が来ているはず、Atmosphereの舞台はオーナーが提供してもその空間をクールに見せるのはメンバーひとりひとりの意識なはずです。

東京クラシッククラブには、いわゆる日本における“名門”と呼ばれる、厳しい規律の中で閉鎖的且つ封建的に運営されてきたクラブとは一線を画した、今の時代に合った『国際基準の洗練されたプライベートクラブ』として、クラブ憲章にもあるように「自由、平等、博愛」の精神の基、国籍を問わず家族や仲間と交流し、互いに学び、人間性を高めていく既存のゴルフクラブにはないAtmosphereの創造を実現してほしいと願っています。

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